最近よく聞く『自己肯定感』って結局なんなん?
『自己肯定感が低い』とか『自己肯定感を高めよう』とか。
私が学生だったときは耳にしなかった言葉を最近よく耳にする。
そして、『自己肯定感が低い』とダメで、『自己肯定感が高い』と良い、という印象が強い。
こういうことを皮肉っぽく書こうとしている時点で、私は『自己肯定感が低い』のだろう(笑)
こればかりは“生まれ育った環境によるもの”だと私は思う。
可愛い可愛いと親の愛情をいっぱいに受けて大切に育てられた子と、否定形の言葉を多用する歪んだ親の愛情に嫌悪を抱いた子と、その差である。
日本はどんどん生きにくい世の中になってきた。
男も女も、変わらず生きにくい世の中だ。
女性の社会進出、男女平等。
『女性を大切にしている社会』というのは見せかけで、結局のところ鬱陶しい存在のように扱われている。
“男と女はどう考えても同じものではない”のに『男女平等なのだから女も男と同じようにしろ』と男女平等が違う形で捉えられてしまった。
その結果が“女性に優しくない社会”なのだ。
こう言うと「女を大切にしろだの、女に優しくしろだの、女ばかり」とわめく輩が出現する。
“女性に優しくない社会”になった結果、女性が子どもを産んで育てることを“やりたくなくなった”ということに気付いていない。
いや、気付いているけど見て見ぬふりか、正しい修正方法がわからないから放置か。
別れ際に面倒になって自然消滅を狙ってフェードアウトする男のごとし。
“女性に優しくない社会”になってしまったことを華麗にスルーしている。
少子化が加速するのも納得である。根本がずっと昔から変わらないのだから。
安定期に入る前の妊娠初期が一番つわりがひどくて辛いのに、お腹が膨らんでいないから理解されない。
お腹が大きくなっても出産の6週間前までみっちり働かされる。
謎の固定概念で「帝王切開や無痛分娩は甘え」とされ、自然分娩じゃなきゃ母親失格とまで言われる。
言葉もままならないわが子を保育園に預けてまで働かなくてはいけない。
そもそも保育園が見つからない。
急な発熱で呼び出されて仕事を抜けなきゃいけない。
周りに迷惑をかけながら、頭を下げながら、子どもを育てながら、働かなきゃ生きていけない。
女性が背負っているもの、デカすぎん?
なぜこうなってしまったかというと『日本人女性の我慢強さ』のせいでもあると私は思う。
これらの過酷な状況を、日本人女性は“できてしまう”から。
「あれもこれもできているもんね。じゃあこれからも、あっちとそっちもやれるよね?」
そうやって無理難題が目の前に積み重ねられ、どんどんどんどん、ハードルは上がっていったのだろう。
そして、そのハードルを越えられない日がやってくる。
『小1の壁・問題』である。
保育園児であるうちは、母親の迎えがくるまで保育士が見ていてくれたのに。
6歳になった途端、母親の迎えはないし、学童か一人で留守番を強いられる。
なんなら朝のお見送りすらできず、子どもが戸締りをして家を出ることもある。
急に過酷な状況下に子どもを置かねばならない。
そこまでして働かなくてはいけないのか。
そう思って『小1の壁』を理由に正社員を諦め、子どもが学校へ行っている間だけパートタイムで勤めるようになる。
これが、結婚して、子どもを産んで、働きながら子どもを育てた女性に待っている未来なのである。
そんな未来があるとわかっていて、私にはこの選択はできない。
孤独死を心配しながらひとりでいる方がよっぽどいい。
私のような毒親育ちの自己肯定感MAXに低いひねくれ者が、子どもを産んで育ててはいけない気もする。
子どもにも申し訳なく、合わせる顔もない。
結婚もしないで、出産もしないで、と、後ろ指さされても構わない。
結婚しても出産しても、良い未来が待っているとは思えないから。
結婚してもしなくても、出産してもしなくても、どちらの道を選んでも待っているのは罰ゲームレベルの生活ではないだろうか。
だったら私は、まだ結婚も出産もできる年齢だけど、結婚や出産という選択肢を自分の人生の中から消去したい。
結婚もしたくないし、出産もしたくない。
孤独死は不安だけど、そのときはそのときだと割り切るしかない。
そんな私だから、自分に散財して、誰にも愛されなかった自分を自分で愛してあげるしかないのだ。
それがいわゆる『自己肯定感を高める』ことにいつか繋がっていくのだろう。
もっとも『自己肯定感を高め』なくちゃいけないわけではないと思うけれど。
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